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モーツァルト:後期三大交響曲~交響曲第39番・第40番・第41番「ジュピター」
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曲目リスト
ディスク: 1
1 | 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 第1楽章:アダージョ-アレグロ |
2 | 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 第2楽章:アンダンテ・コン・モート |
3 | 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 第3楽章:メヌエット-トリオ |
4 | 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 第4楽章:アレグロ |
5 | 交響曲 第40番 ト短調 K.550 第1楽章:モルト・アレグロ |
6 | 交響曲 第40番 ト短調 K.550 第2楽章:アンダンテ |
7 | 交響曲 第40番 ト短調 K.550 第3楽章:メヌエット アレグレット-トリオ |
8 | 交響曲 第40番 ト短調 K.550 第4楽章:フィナーレ アレグロ・アッサイ |
ディスク: 2
1 | 交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 第1楽章:アレグロ・ヴィヴァーチェ |
2 | 交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 第2楽章:アンダンテ・カンタービレ |
3 | 交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 第3楽章:メヌエット アレグレット-トリオ |
4 | 交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 第4楽章:モルト・アレグロ |
商品の説明
内容紹介
アーノンクールにとって、モーツァルト「後期三大交響曲」の三度目の、そして決定盤ともいえる録音です。アーノンクールが手塩にかけて育て上げてきたオリジナル楽器演奏のパイオニア、コンツェントゥス・ムジクスとの初のモーツァルト後期交響曲録音となったこのアルバムでは、個性的な三曲をひとまとまりの「器楽によるオラトリオ」と捉える独自の視点で解釈しており、細部の鮮烈なまでの対比、強烈なアクセント、すべての反復の実施によって、作品の前衛性が明らかにされています。コンツェントゥス・ムジクスならではの献身的かつ練達のアンサンブルも聴きもの。熟成と革新を両立させ、モーツァルトの演奏史に新たな一歩を記した名盤です。
■2CD
<収録内容>
モーツァルト:
DISC 1
1交響曲 第39番 変ホ長調 K.543
2交響曲 第40番 ト短調 K.550
*交響曲 第39番の第4楽章が終わった後、間髪置かずに
第40番の第1楽章が始まりますが、これは
アーノンクールの指定によってこのように編集されているものです。
DISC 2
交響曲 第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」
ニコラウス・アーノンクール指揮
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
[録音]2012年12月1日&2日(2)、2013年10月12日&13日(12)
ウィーン、ムジークフェラインザールでのライヴ・レコーディング
メディア掲載レビューほか
アーノンクールにとって、モーツァルト「後期三大交響曲」の三度目の、そして決定盤ともいえる録音です。アーノンクールが手塩にかけて育て上げてきたオリジナル楽器演奏のパイオニア、コンツェントゥス・ムジクスとの初のモーツァルト後期交響曲録音となったこのアルバムでは、個性的な三曲をひとまとまりの「器楽によるオラトリオ」と捉える独自の視点で解釈しており、細部の鮮烈なまでの対比、強烈なアクセント、すべての反復の実施によって、作品の前衛性が明らかにされています。コンツェントゥス・ムジクスならではの献身的かつ練達のアンサンブルも聴きもの。熟成と革新を両立させ、モーツァルトの演奏史に新たな一歩を記した名盤です。 (C)RS
登録情報
- 梱包サイズ : 14.3 x 12.5 x 1.1 cm; 130 g
- メーカー : SMJ
- EAN : 4547366471359
- 時間 : 1 時間 44 分
- レーベル : SMJ
- ASIN : B08J576PX9
- ディスク枚数 : 2
- Amazon 売れ筋ランキング: - 17,884位ミュージック (ミュージックの売れ筋ランキングを見る)
- - 808位交響曲・管弦楽曲・協奏曲
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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演奏については、かつての様式では、ベートーヴェンと比較してのモーツァルト、という見方が強かったのではないか。ここでは、ベートーヴェンが現れる前の、時代の先端としての、抑制されない自由なモーツァルトが感じられる。ピリオド様式というのは、今の歴史観から抜け出すことにつながるとも言える気がする。
モーツァルトはハイドンには負けますが40以上の交響曲を作曲しており、ハイドンいなければ「交響曲の父」の称号は彼のものだった可能性もあります。
あまりクラシックに詳しくない身ですが、39番は終始穏やかな曲調で流れ、40番の第一楽章は皆さん一度はCMなどで聴いたことがあるのでないかと思う耳慣れたフレーズで始まり、全体的に激しい交響曲という印象。
「ジュピター(木星)」の異名を持つ第41番は後期交響曲のトリを飾るような存在ですが、穏やかさと激しさが交互にやってくるような39番と40番の混合とも言える曲調かと感じました。
有名どころだけでも押さえて置けば教養としてもかなり違うのではないかと思いました。
実際に、聴いてみて感じたことは、指揮者が作曲家よりも、かなりしゃしゃり出ているな、というものでした。なぜ、ここでテンポが急に遅くなるのか、なぜ、ここで、他の演奏では聞こえてこない音が強調されているのか・・・。などなど、疑問は尽きません。大体において、この「名曲名盤500」なる本は「既成の演奏とは違った、全く新しい解釈の演奏に高い評価を与えよう」という底意が強く感じられます。その方が、音楽業界を活性化できるからでしょうか。新しいアルバムが売れれば、売れるほど、音楽業界が活性化されるわけですから。3曲の中で、強烈な違和感を覚えたのは41番です。遅い、余りに遅いのです。ひとつのきちんと定まった解釈に基づくのではなく、徒に遅くしてみようと一芝居、打ったのではないのか、と邪推してみたくもなります。また、アーノンクールが唱える3曲の交響曲の三位一体説も私には疑問です。牽強付会とも云えるのではないのでしょうか。
これまで、アーノンクールをまじめに聴いてこなかった私ですが、もう、お腹いっぱいです。
今は、ただ、無性にワルターやベームのモーツァルトを聴いてみたい、そんな気持ちでいっぱいです。
カールベームさんとは真逆の演奏スタイル。特に39番、40番はロックを聞いているようなメリハリのある演奏。
反面41番は違ってスローな溜めた演奏。
でもきっと18世紀の演奏はこの2枚組のような演奏だった気がします。
故ニコラウス・アーノンクール氏は、1980年エラスムス賞を始め多数の受賞など、
特にバロック音楽の泰斗であり大学者である。
この事を忘れたり、横に置いての鑑賞は、あまり賢明でないことを体感。
何故なら、聴いていて耳が気づいたことは、
既にアーノンクール氏の著作で述べられているからである。
つまり、彼の研究成果である仕事を聴くだけでなく、読むことも並行して、
真に鑑賞出来るのだと再認識したのである。
私はバロック音楽が理屈抜きに好きだった。
聴いているだけで満足する時期が長く、音楽は奏するより踊る(バレエ)ほうが好きだった。
要するに、常に感性や感覚で聴く性向が強く、
知識は後から補足のように求めて、理解を深めていくことになる。
しかし、アーノンクール氏に関しては、
先ず著書タイトル『古楽とは何か―言語としての音楽』に強烈に興味を持ち、
他の演奏家のライナーノーツ等で活動や指示の一端に触れ、
著書を購入。
気付きを得た箇所から読んでゆくことになった。
翻訳が良いこともあるが、共感しながら読むこともあり非常に読み易く、
明晰という点で解りやすい著述である。
このモーツァルトの後期3大交響曲の録音は、
埋没してしまっていた音楽効果を、再度顕現させた功績が収められている。
聴き手の日本的比喩表現で言えば、天女の羽衣の如くの演奏だったものが、
実は堂宇の如くの演奏であることを聴き、驚きと共に、
これは何かが違うとはっきり分かった。
氏の著書を再び読み直すと、やはり指摘があった。
“モーツァルトがすでに作曲時から「それがいかなる効果を及ぼすか予想がついていた」その箇所は、
今はほとんどの場合、平面的に演奏されてしまう。”
(『古楽とは何か―言語としての音楽』より抜粋)
また、この録音は2012~2013年にかけて行われたものだが、
1984年に出版された『音楽は対話である』には既に言及がある。
“このようなテンポの相互関係の意味についてはさらにもう一つ重要な論拠がある。
モーツァルトは最後の三大交響曲を、作品依頼や具体的な契機もなく
1888年7月に一気に書き上げているのだが、私はこの作品群を
内的な関連性を持つ一連のチクルスだと思うのである。”
(「モーツァルトにおけるアレグロとアンダンテの考察」より抜粋)
モーツァルトの旋律美や音の重層美にのみ傾注していた段階から、
漸くアーノンクール氏の著作にある奥行きに入っていけるようになった
私にとって記念碑的ディスク。
特に第40番は 非常にドラマティックで、第2楽章では何度も呼ばれる如く魅了された。
1969年にアーノンクール氏がウィーン交響楽団退団を決意した逸話をもつ曲で、
ある意味大学者への道へ送り出した曲。
耳の充足と学芸による精神の充足、享受するものは計り知れない。
賛否両論の本盤だが、それは良くも悪くも通常とは違う料理方法である結果である。確かに木管と金管の刺さり具合が印象的だが、僕はそれはそれで楽しめた。何よりも、このような「不自然さ」が、現代とは異なる当時の楽器による編成では「自然な」鳴り方なのだとしたら?
チェロ演奏者として古楽に取り組むところからキャリアをスタートしたこの指揮者/識者の研究と解釈を、僕は簡単に切り捨てる気にはならないんだよな。勿論、それは僕がモーツァルトという作曲家に全くこだわりがないからだし、また歴史好きだからでもある。
しかも今回は手兵のウィーン・コンツェントス・ムジクス(CMW)との演奏。
指揮者は「したい放題」やっている。
「綺麗」「調和」「古典的」とは正反対の演奏。
CMWの創設から50年以上、もはや彼らは指揮者の精神と肉体の<延長>になっている。指揮者の意図以上の表現かもしれない。
CWMは普通の古楽アンサンブルと異なり、各奏者の個性的な表現は禁止され、彼の好みの色に染め上げられている。
すべての瞬間が「アーノンクール」。既存オケとの演奏とは次元が異なる。
1980年の初来日以来、アーノンクールを聴き続けている私でも「耳に突き刺さる辛い」演奏だ。
アゴーギクはフルトヴェングラー以上に特異。
異様な不協和音の強調、悲壮感、慟哭、悲嘆、緊張、爆発。
ECOとの録音では、こういう汚くアンバランスで緊張した瞬間は、まもなく美しさ、調和に復帰して解決したが、
この演奏では「汚れ=>美と均衡」に向かう予定調和になっていない。混沌、アンバランスが残像のように残る。
彼の最近のモーツアルト演奏、特にオペラ演奏で顕著だが、
「疾風怒濤:Sturm und Drang」の「最終形態」とでもいうべき深刻な雰囲気のモーツアルト。
たとえば三大オペラ(DVD、ブルーレイが複数入手可能)。
まさに多感様式、疾風怒涛の恋の乱痴気騒ぎ。乱痴気な分、きれい事で無い人間が描かれる。
Sturm und Drang様式の代表格:エマヌエル・バッハとの違いは「巨大さ」「人間の複雑さ、醜さ、愚かさ、可愛さ」そして饒舌。
思い起こせば彼のウェーバーの「魔弾の射手」、モーツアルトの「皇帝ティトゥスの慈悲」のDVDもそうだった。
モーツアルトは30年早くやってきたロマン派? ひょっとしてロマン派への過渡期なのか?
(後世の後付けによる)音楽史の時代区分の<押しつけ>とは無関係に、
「自分のスタイルを突き詰め、何人にも似ず、何人も継承したいと考えない、孤高の存在になった」というのが精確かもしれない。
そして今回の三大交響曲もロマン派を凌駕する巨大なエネルギー。
デモーニッシュという言葉では表現できない凄まじさ。
「地面に開いた穴を覗き込むと、地底深く見通せて、遂には地獄の風景まで見えた?」
音楽評論家や音楽学者が述べていたようなモーツアルト作品の境地が演奏として(=実際の音響として)提示されている。
Sturm und Drang様式の、その「遥か先」にある作品とその演奏。
こんな「深刻極まりない」モーツアルト
これって古典派?
聴いて楽しい??
癒やされますか???
答えはもちろんNO!
私は好きだが、一般のリスナーにとっては、さあぁ・・・・・・
1980年の初来日いらい、私は一貫してアーノンクールを音楽解釈の実践の<原器>として、音楽生活の中心に置いて聴いてきた。
この演奏は真に彼の総決算といえる。私の音楽生活の総決算でもある。
孤高の精神、孤高の演奏。誰も継承できない境地。