Kindle 価格: | ¥485 (税込) |
獲得ポイント: | 5ポイント (1%) |
を購読しました。 続刊の配信が可能になってから24時間以内に予約注文します。最新刊がリリースされると、予約注文期間中に利用可能な最低価格がデフォルトで設定している支払い方法に請求されます。
「メンバーシップおよび購読」で、支払い方法や端末の更新、続刊のスキップやキャンセルができます。
エラーが発生しました。 エラーのため、お客様の定期購読を処理できませんでした。更新してもう一度やり直してください。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
クロイツェル・ソナタ 悪魔(新潮文庫) Kindle版
だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
――マタイによる福音書第5章28
妻を殺した男が語る、性の欲望のおそろしさと罪深さ――。
嫉妬のため妻を殺した男の告白を通して、惨劇の理由を迫真の筆に描き、性問題に対する社会の堕落を痛烈に批判した『クロイツェル・ソナタ』、実在の事件に自身の過去の苦い経験を交えて懺悔の気持をこめて書いた『悪魔』。性的欲望こそ人間生活のさまざまな悪や不幸、悲劇の源であるとして、性に関するきわめてストイックな考えと絶対的な純潔の理想とを披瀝した中編2作。
60歳を越えてトルストイは、性の問題をテーマとした作品を書き続けた。「『クロイツェル・ソナタ』を通して言いたかった5つのこと」として、トルストイは「あとがき」を付している(本書解説参照)。トルストイの性に対する考え方がわかります。
【目次】
クロイツェル・ソナタ
悪魔
訳者解説
本書収録『クロイツェル・ソナタ』より
俺は誠実な人間だ。立派な両親の間に生れた子供だ。一生涯、家庭生活の幸福を夢みてきたし、一度も浮気をしたことのない男なんだ……それなのに、どうだろう!五人も子供がありながら、あの女は、赤い唇をしているというだけであんな音楽家に抱かれるなんて!いや、あんなのは人間じゃない!牝犬(めすいぬ)だ、さかりのついた牝犬なんだ!今日までずっと、子供を愛しているふりをしてきながら、その子供たちの部屋の隣りで。しかも、俺にあんな手紙を書いてよこすなんて!それでいて、恥知らずに頸(くび)ったまにかじりつくんだ!(本書155ページ)
本書解説より
(『クロイツェル・ソナタ』の中で)男女の性的な関係を彼(トルストイ)は三つの段階に分けて考える。第一の段階は、男性に対する女性の隷属で、女性は男性の性欲に支配され、絶対的貞操を要求される。第二の段階は、男性に対する女性の反抗であり、ここでは女性も権利の平等を要求して性欲を自由にみたす。第三の段階は、偽善の仮面をかぶった道徳で、ここでは両性間にはもはやなんら精神的結びつきはなく、惰性による醜悪な性欲の満足があるだけとなる。
――原卓也(訳者)
トルストイ Tolstoj, Lev N(.1828-1910)
19世紀ロシア文学を代表する巨匠。ヤースナヤ・ポリャーナに地主貴族の四男として育つ。ルソーを耽読し大学を中退後、暫く放蕩するが、従軍を機に処女作『幼年時代』等を発表、賞賛を受ける。帰還後、領地の農民の教育事業に情熱を注ぎ、1862年の幸福な結婚を機に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を次々に完成。後、転機を迎え、「神と人類に奉仕する」求道者を標榜し、私有財産を否定、夫人との不和に陥る。1899年『復活』を完成。1910年、家出の10日後、鉄道の駅長官舎で波瀾の生涯を閉じた。
原卓也(1930-2004)
東京生れ。東京外国語大学ロシア語科卒。同大教授、学長を歴任。トルストイ、チェホフ、ドストエフスキー等の翻訳多数。著書に『スターリン批判とソビエト文学』等。
――マタイによる福音書第5章28
妻を殺した男が語る、性の欲望のおそろしさと罪深さ――。
嫉妬のため妻を殺した男の告白を通して、惨劇の理由を迫真の筆に描き、性問題に対する社会の堕落を痛烈に批判した『クロイツェル・ソナタ』、実在の事件に自身の過去の苦い経験を交えて懺悔の気持をこめて書いた『悪魔』。性的欲望こそ人間生活のさまざまな悪や不幸、悲劇の源であるとして、性に関するきわめてストイックな考えと絶対的な純潔の理想とを披瀝した中編2作。
60歳を越えてトルストイは、性の問題をテーマとした作品を書き続けた。「『クロイツェル・ソナタ』を通して言いたかった5つのこと」として、トルストイは「あとがき」を付している(本書解説参照)。トルストイの性に対する考え方がわかります。
【目次】
クロイツェル・ソナタ
悪魔
訳者解説
本書収録『クロイツェル・ソナタ』より
俺は誠実な人間だ。立派な両親の間に生れた子供だ。一生涯、家庭生活の幸福を夢みてきたし、一度も浮気をしたことのない男なんだ……それなのに、どうだろう!五人も子供がありながら、あの女は、赤い唇をしているというだけであんな音楽家に抱かれるなんて!いや、あんなのは人間じゃない!牝犬(めすいぬ)だ、さかりのついた牝犬なんだ!今日までずっと、子供を愛しているふりをしてきながら、その子供たちの部屋の隣りで。しかも、俺にあんな手紙を書いてよこすなんて!それでいて、恥知らずに頸(くび)ったまにかじりつくんだ!(本書155ページ)
本書解説より
(『クロイツェル・ソナタ』の中で)男女の性的な関係を彼(トルストイ)は三つの段階に分けて考える。第一の段階は、男性に対する女性の隷属で、女性は男性の性欲に支配され、絶対的貞操を要求される。第二の段階は、男性に対する女性の反抗であり、ここでは女性も権利の平等を要求して性欲を自由にみたす。第三の段階は、偽善の仮面をかぶった道徳で、ここでは両性間にはもはやなんら精神的結びつきはなく、惰性による醜悪な性欲の満足があるだけとなる。
――原卓也(訳者)
トルストイ Tolstoj, Lev N(.1828-1910)
19世紀ロシア文学を代表する巨匠。ヤースナヤ・ポリャーナに地主貴族の四男として育つ。ルソーを耽読し大学を中退後、暫く放蕩するが、従軍を機に処女作『幼年時代』等を発表、賞賛を受ける。帰還後、領地の農民の教育事業に情熱を注ぎ、1862年の幸福な結婚を機に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を次々に完成。後、転機を迎え、「神と人類に奉仕する」求道者を標榜し、私有財産を否定、夫人との不和に陥る。1899年『復活』を完成。1910年、家出の10日後、鉄道の駅長官舎で波瀾の生涯を閉じた。
原卓也(1930-2004)
東京生れ。東京外国語大学ロシア語科卒。同大教授、学長を歴任。トルストイ、チェホフ、ドストエフスキー等の翻訳多数。著書に『スターリン批判とソビエト文学』等。
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日1952/6/16
- ファイルサイズ608 KB
- 販売: Amazon Services International LLC
- Kindle 電子書籍リーダーFire タブレットKindle 無料読書アプリ
Amazon 新生活SALE (Final) 開催中
期間限定!人気商品がお買い得。最大5,000ポイント還元ポイントアップキャンペーン
Amazon 新生活SALE (Final) を今すぐチェック
Amazon 新生活SALE (Final) を今すぐチェック
この本を読んだ購入者はこれも読んでいます
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
出版社より
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
---|---|---|---|---|---|
アンナ・カレーニナ〔上〕 | アンナ・カレーニナ〔中〕 | アンナ・カレーニナ〔下〕 | クロイツェル・ソナタ 悪魔 | 人生論 | |
カスタマーレビュー |
5つ星のうち4.0
75
|
5つ星のうち4.4
42
|
5つ星のうち4.0
56
|
5つ星のうち4.1
36
|
5つ星のうち4.1
122
|
価格 | ¥990¥990 | ¥1,155¥1,155 | ¥979¥979 | ¥605¥605 | ¥506¥506 |
【新潮文庫】トルストイ 作品 | 文豪トルストイが全力を注いで完成させた不朽の名作。美貌のアンナが真実の愛を求めるがゆえに破局への道をたどる壮大なロマン。 | 性的欲望こそ人間生活のさまざまな悪や不幸の源であるとして、性に関する極めてストイックな考えと絶対的な純潔の理想を示す 2 編。 | 人間はいかに生きるべきか?人間を導く真理とは?トルストイの永遠の問いをみごとに結実させた、人生についての内面的考察。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
---|---|---|---|---|---|---|
戦争と平和 一 | 戦争と平和 二 | 戦争と平和 三 | 戦争と平和 四 | 復活〔上〕 | 復活〔下〕 | |
カスタマーレビュー |
5つ星のうち4.1
130
|
5つ星のうち4.4
80
|
5つ星のうち4.3
77
|
5つ星のうち4.4
85
|
5つ星のうち4.1
47
|
5つ星のうち4.6
39
|
価格 | ¥1,045¥1,045 | ¥1,100¥1,100 | ¥1,155¥1,155 | ¥1,045¥1,045 | ¥737¥737 | ¥737¥737 |
【新潮文庫】『戦争と平和』シリーズ | ナポレオンのロシア侵攻を歴史背景に、十九世紀初頭の貴族社会と民衆のありさまを生き生きと写して世界文学の最高峰をなす名作。 | 青年貴族ネフリュードフと薄幸の少女カチューシャの数奇な運命の中に人間精神の復活を描き出し、当時の社会を痛烈に批判した大作。 |
登録情報
- ASIN : B01HE9VI0U
- 出版社 : 新潮社 (1952/6/16)
- 発売日 : 1952/6/16
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 608 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効にされていません
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 220ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 261,599位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 935位ロシア・東欧文学研究
- - 6,972位新潮文庫
- - 7,079位評論・文学研究 (Kindleストア)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2021年12月21日に日本でレビュー済み
レポート
非常に読みごたえがあった。ロシア文学にはまりそう。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2014年5月18日に日本でレビュー済み
2編の小説の巻頭にはマタイによる福音書の引用があり、主人公はいずれも19世紀の一介の貴顕紳士である。若い頃は遊興に明け暮れつつ、適度に女と関係しながら
深みに入ることなく、やがて機が熟すと、叩けばホコリの出る身辺整理をやり終えて結婚準備に取り掛かるという寸法である。
トルストイがわざわざ小説の巻頭に聖書の箴言を引用するのは、トルストイが予々自らの念頭に掲げていた性欲一般に関する性悪説への拘わりである。
「クロイチェルソナタ」では一家の主人ポズドヌイショフが、度を超えた嫉妬故に妻を殺害する。夫婦間の性的不一致、子供の養育など当たり前な結婚生活の渦中で罵り合
う日々。そして、痴話喧嘩の果てはいつも決まってどちらからともなく性的和合による休戦協定。この繰り返しの日々に夫婦の前にたち現れる一人の紳士があった。
この男と妻の共通の趣味が音楽である。二人は社交的立場を弁えながら、招待客の前にデュオでベートーヴェンを演奏する。他愛ない夫婦間の諍いの真っ只中に他人が
入ることで、マンネリ化した夫婦の機微にも風入れ効果が生じてくる。ボズドヌイショフが最初知り合った頃の初々しい妻の表情と立ち居振舞いが別の男に振り向けられる
のは気に入らない。あとは言わずと知れて、あることないこと嫉妬に苛まれることになる。夫婦のあいだには3人の子供があったが、これが「鎹」になるどころか、大人の事
情を知らないのをこれ幸いに、お気に入りの子を自らの陣営に引き入れて利用しようとする利己的状況に至ってはもはや救いようがない。憎悪と愛の交錯する結婚生活破
綻の口実に妻の不貞を見出すことは、洋の東西、時代の制約を超えて甚だ容易いことである。
小説「悪魔」では、青年期の性的欲求を精神衛生上の生理的健康管理の一貫として自らを正当化し婚前に所帯持ちの百姓女と関係を結び、いまや結婚準備のため過去の
一切を精算した片田舎の中堅貴族エヴゲーニイ。その結婚生活が描かれる。非の打ち所のない妻との出会いは「クロイチェルソナタ」と変わりない。
脂ののりきった公私生活の充実感、手狭な新婚の住まいを整えるために什器や家具を誂えているが人手が足りない。そこで土地界隈の百姓女たちを雇うことになった。
土地の借財や新事業のために忙殺される合間をぬって、エウゲーニイは自邸の様子を誇らしげに眺めやる。と、そこには一年前吹っ切れたはずの百姓女ステパニーダがい
た。素知らぬ風情はお互いだが、エウゲーニイの視線のうちには、少なからず後ろめたい青年期の充血が蘇る。何不自由ない結婚生活、しかも第一子が生まれようとする最
中においてである。ステパニーダからの誘いがあるわけでもなく、過ぎ去った情熱を懐かしむ身勝手なないものねだりに唾棄と罪悪感を覚えるのは彼自身であった。
この衝動を抑えるには、ステファニーダ・妻・自分の三人のうち、誰かが居なくなれば良いのである。短絡的な解決策を見出したエウゲーニイのとった結末は、作者をして
次のような戒めを小説の末尾に記述する。すこし長いが引用しておく。
「もしエヴゲーニイ・イルチェーニェフが精神異常だったとしたら、あらゆる人間が同じように精神異常であり、それらの精神異常者の中でもいちばん確実なのは、他人の内に
狂気の徴候を見いだし、自分の内にそれを見いださぬ人々にほかならない」(原卓也訳)
深みに入ることなく、やがて機が熟すと、叩けばホコリの出る身辺整理をやり終えて結婚準備に取り掛かるという寸法である。
トルストイがわざわざ小説の巻頭に聖書の箴言を引用するのは、トルストイが予々自らの念頭に掲げていた性欲一般に関する性悪説への拘わりである。
「クロイチェルソナタ」では一家の主人ポズドヌイショフが、度を超えた嫉妬故に妻を殺害する。夫婦間の性的不一致、子供の養育など当たり前な結婚生活の渦中で罵り合
う日々。そして、痴話喧嘩の果てはいつも決まってどちらからともなく性的和合による休戦協定。この繰り返しの日々に夫婦の前にたち現れる一人の紳士があった。
この男と妻の共通の趣味が音楽である。二人は社交的立場を弁えながら、招待客の前にデュオでベートーヴェンを演奏する。他愛ない夫婦間の諍いの真っ只中に他人が
入ることで、マンネリ化した夫婦の機微にも風入れ効果が生じてくる。ボズドヌイショフが最初知り合った頃の初々しい妻の表情と立ち居振舞いが別の男に振り向けられる
のは気に入らない。あとは言わずと知れて、あることないこと嫉妬に苛まれることになる。夫婦のあいだには3人の子供があったが、これが「鎹」になるどころか、大人の事
情を知らないのをこれ幸いに、お気に入りの子を自らの陣営に引き入れて利用しようとする利己的状況に至ってはもはや救いようがない。憎悪と愛の交錯する結婚生活破
綻の口実に妻の不貞を見出すことは、洋の東西、時代の制約を超えて甚だ容易いことである。
小説「悪魔」では、青年期の性的欲求を精神衛生上の生理的健康管理の一貫として自らを正当化し婚前に所帯持ちの百姓女と関係を結び、いまや結婚準備のため過去の
一切を精算した片田舎の中堅貴族エヴゲーニイ。その結婚生活が描かれる。非の打ち所のない妻との出会いは「クロイチェルソナタ」と変わりない。
脂ののりきった公私生活の充実感、手狭な新婚の住まいを整えるために什器や家具を誂えているが人手が足りない。そこで土地界隈の百姓女たちを雇うことになった。
土地の借財や新事業のために忙殺される合間をぬって、エウゲーニイは自邸の様子を誇らしげに眺めやる。と、そこには一年前吹っ切れたはずの百姓女ステパニーダがい
た。素知らぬ風情はお互いだが、エウゲーニイの視線のうちには、少なからず後ろめたい青年期の充血が蘇る。何不自由ない結婚生活、しかも第一子が生まれようとする最
中においてである。ステパニーダからの誘いがあるわけでもなく、過ぎ去った情熱を懐かしむ身勝手なないものねだりに唾棄と罪悪感を覚えるのは彼自身であった。
この衝動を抑えるには、ステファニーダ・妻・自分の三人のうち、誰かが居なくなれば良いのである。短絡的な解決策を見出したエウゲーニイのとった結末は、作者をして
次のような戒めを小説の末尾に記述する。すこし長いが引用しておく。
「もしエヴゲーニイ・イルチェーニェフが精神異常だったとしたら、あらゆる人間が同じように精神異常であり、それらの精神異常者の中でもいちばん確実なのは、他人の内に
狂気の徴候を見いだし、自分の内にそれを見いださぬ人々にほかならない」(原卓也訳)
2010年12月26日に日本でレビュー済み
文庫本の裏表紙には「性に関するきわめてストイックな考えと絶対的な純潔の理想とを披瀝した中編2作」とあるし、解説にはトルストイ自身が「クロイツェル・ソナタ」刊行時につけた「あとがき」からウルトラ・ストイシズムが引用されている。
だが、決して、性愛否定の古めかしい説教ではない。
2作とも関係者の死に帰結するのだが、直接の原因は、欲望ではなく、逆に、独占欲や貞潔観念なのだ。
さらに、性愛に苦しむ主人公たちへの作者のまなざしには、罪人への断罪ではなく、わかっちゃいるけどやめられない人間への共感のほうを強く感じてしまう。
作者の主観的な意識のありようはともかく、作品としては、決して古くない。「クロイツェル・ソナタ」には少子化問題の先取りのようなところもあり、そこも興味深い。
文章を読む楽しみという部分でも、セリフ中心の「クロイツェル・ソナタ」と、地の文主体で旺盛な筆力が横溢する「悪魔」の組み合わせで、味わいは豊かだ。
(なお、文庫の初版は1974年だが、2005年に改版されており、古い文庫本の小さな活字ではなく、読みやすい。)
だが、決して、性愛否定の古めかしい説教ではない。
2作とも関係者の死に帰結するのだが、直接の原因は、欲望ではなく、逆に、独占欲や貞潔観念なのだ。
さらに、性愛に苦しむ主人公たちへの作者のまなざしには、罪人への断罪ではなく、わかっちゃいるけどやめられない人間への共感のほうを強く感じてしまう。
作者の主観的な意識のありようはともかく、作品としては、決して古くない。「クロイツェル・ソナタ」には少子化問題の先取りのようなところもあり、そこも興味深い。
文章を読む楽しみという部分でも、セリフ中心の「クロイツェル・ソナタ」と、地の文主体で旺盛な筆力が横溢する「悪魔」の組み合わせで、味わいは豊かだ。
(なお、文庫の初版は1974年だが、2005年に改版されており、古い文庫本の小さな活字ではなく、読みやすい。)
2017年12月15日に日本でレビュー済み
★トルストイの出した結論★
人間には「良い人間」と「悪い人間」の2種類がいる。
世の中の99%の夫婦、家族の中に「悪い人間=どうぶつ=悪魔」が混ざっていて、
その結果、99%の人間が、愛と思いやりのない家庭生活を経験している実態を、
ロシア正教会も、ローマカトリック教会もきちんと信者と子供たちに伝えるべき。
1、人間にはヒトとどうぶつの2種類がいる。人間のうち10%はヒトであり、
残りの90%はどうぶつである。
「ヒト=理性と喜怒哀楽、愛、思いやりを持ち、仕事をする能力がある」
「どうぶつ=動物=悪魔=ヒトと同じ形をしているが、理性も喜怒哀楽もなく残虐で強欲で、自己中心的。
仕事をする能力が無い。そして多くのどうぶつは理性と喜怒哀楽、愛、思いやりがあるフリをし、
仕事をする能力があるフリをしている。どうぶつはしばしば演技する。」
2、それゆえ、「愛と思いやりのあるヒトとヒト同士の結婚」ができるのは1%の人間だけであり、
残りの99%の結婚は、「愛のないヒトとどうぶつの結婚」か、「愛のないどうぶつとどうぶつの結婚」である。
教会やキリスト教が教えるような「愛と思いやりのある結婚」「愛と思いやりのある家族と家庭生活」
というのは99%の人間にとってまやかしのウソである。
家族の中にどうぶつが一人でも混じっていれば、その家族と家庭には愛も思いやりも平穏もない。
「愛と思いやりのある家庭」などというウソを、
あたかも本当の事で、多くの人が実行しているように吹聴し、
世の中の多くの人を混乱におとしいれているところに
ロシア正教会やローマカトリック教会の罪がある。
世の中の99%の人間が「愛と思いやりのない家族」
「どうぶつ=悪魔が混じっている家族」の中で生活している実態を、
正確にきちんと世の人々、世の子供たちに教える事こそが、最も重要である。
事実を正確に理解し、事態を正確に見極めてこそ、子供も大人も
家族の間のトラブルや困りごとの解決ができるのである。
人間には「良い人間」と「悪い人間」の2種類がいる。
世の中の99%の夫婦、家族の中に「悪い人間=どうぶつ=悪魔」が混ざっていて、
その結果、99%の人間が、愛と思いやりのない家庭生活を経験している実態を、
ロシア正教会も、ローマカトリック教会もきちんと信者と子供たちに伝えるべき。
1、人間にはヒトとどうぶつの2種類がいる。人間のうち10%はヒトであり、
残りの90%はどうぶつである。
「ヒト=理性と喜怒哀楽、愛、思いやりを持ち、仕事をする能力がある」
「どうぶつ=動物=悪魔=ヒトと同じ形をしているが、理性も喜怒哀楽もなく残虐で強欲で、自己中心的。
仕事をする能力が無い。そして多くのどうぶつは理性と喜怒哀楽、愛、思いやりがあるフリをし、
仕事をする能力があるフリをしている。どうぶつはしばしば演技する。」
2、それゆえ、「愛と思いやりのあるヒトとヒト同士の結婚」ができるのは1%の人間だけであり、
残りの99%の結婚は、「愛のないヒトとどうぶつの結婚」か、「愛のないどうぶつとどうぶつの結婚」である。
教会やキリスト教が教えるような「愛と思いやりのある結婚」「愛と思いやりのある家族と家庭生活」
というのは99%の人間にとってまやかしのウソである。
家族の中にどうぶつが一人でも混じっていれば、その家族と家庭には愛も思いやりも平穏もない。
「愛と思いやりのある家庭」などというウソを、
あたかも本当の事で、多くの人が実行しているように吹聴し、
世の中の多くの人を混乱におとしいれているところに
ロシア正教会やローマカトリック教会の罪がある。
世の中の99%の人間が「愛と思いやりのない家族」
「どうぶつ=悪魔が混じっている家族」の中で生活している実態を、
正確にきちんと世の人々、世の子供たちに教える事こそが、最も重要である。
事実を正確に理解し、事態を正確に見極めてこそ、子供も大人も
家族の間のトラブルや困りごとの解決ができるのである。
2009年12月6日に日本でレビュー済み
哲学の自習みたいなものなんだろうか?機械的且つ、多面的に男女関係の深淵に主人公通して迫ろうとしてるように見える。
”クロイツェルソナタ”の方は、ある老人の行きづりの乗車客への罪の告白。そして人間はいかに愚かか、男とはどうあるべきかが物語を通して提示されてるような気がする。そして老人の主人公が過去の罪の懺悔ついでにロシアの当時の社会を批判する。的を射てる物もあれば見当外れすぎなのもあるのが面白い。
”悪魔”の方は、成功してきたあるお坊ちゃんの悲劇。些細な事が大きくなって逃れられなくなっていく。
悪いのは社会か?内面か?悪魔は誰だったのか?
作者はモテたらしく性欲の強さも自覚していたらしいので、両作の男女の機微に基づく描写も妙に納得させられてしまう。
こんな本も読めるなんていい時代だ。勉強になるし。
”クロイツェルソナタ”の方は、ある老人の行きづりの乗車客への罪の告白。そして人間はいかに愚かか、男とはどうあるべきかが物語を通して提示されてるような気がする。そして老人の主人公が過去の罪の懺悔ついでにロシアの当時の社会を批判する。的を射てる物もあれば見当外れすぎなのもあるのが面白い。
”悪魔”の方は、成功してきたあるお坊ちゃんの悲劇。些細な事が大きくなって逃れられなくなっていく。
悪いのは社会か?内面か?悪魔は誰だったのか?
作者はモテたらしく性欲の強さも自覚していたらしいので、両作の男女の機微に基づく描写も妙に納得させられてしまう。
こんな本も読めるなんていい時代だ。勉強になるし。
2006年9月5日に日本でレビュー済み
トルストイの作品の中では短い作品、「クロイツェルソナタ」と「悪魔」は両方とも道徳と家庭の破壊を描いている。
「クロイツェルソナタ」は、長距離列車に乗り合わせた人々が結婚についてそれぞれ意見を述べ合い、愛情にもとづいた結婚だけが真実だという言葉に反論する形で妻を殺した男の自白が始まる。
ここで男は性欲が人類の愛による一致を妨げているものであり、それをなくすことで人類が目的を達成することができたのならば滅びてもよいとまで言っている。ただのストイックな道徳論のみならず、人類の存在そのものにまで考えさせられる作品だった。
「悪魔」は自分では道徳的だと思っていた男が、結婚前に関係していた女への欲望から葛藤し自殺する話である。ただし恋愛による苦しみではなく、あくまで自分の中での堕落に身を任せるか踏みとどまるかという葛藤である。理性と欲望の葛藤といってもいいだろう。原因は妻を愛したことがなかったって事実だと思いますけどね。
トルストイの道徳観は、性別のない天使のように汚れを知らない状態を理想としているんだと思った。
「クロイツェルソナタ」は、長距離列車に乗り合わせた人々が結婚についてそれぞれ意見を述べ合い、愛情にもとづいた結婚だけが真実だという言葉に反論する形で妻を殺した男の自白が始まる。
ここで男は性欲が人類の愛による一致を妨げているものであり、それをなくすことで人類が目的を達成することができたのならば滅びてもよいとまで言っている。ただのストイックな道徳論のみならず、人類の存在そのものにまで考えさせられる作品だった。
「悪魔」は自分では道徳的だと思っていた男が、結婚前に関係していた女への欲望から葛藤し自殺する話である。ただし恋愛による苦しみではなく、あくまで自分の中での堕落に身を任せるか踏みとどまるかという葛藤である。理性と欲望の葛藤といってもいいだろう。原因は妻を愛したことがなかったって事実だと思いますけどね。
トルストイの道徳観は、性別のない天使のように汚れを知らない状態を理想としているんだと思った。
2008年8月25日に日本でレビュー済み
トルストイの禁欲思想自体は一見つまらない退屈な思想にも見えるが、彼が性欲に翻弄される人間の姿をいかによく捉えているかこの2作を読むとよく分かる。
本当のところ私はトルストイの性欲に対する厳格な否定は誤っていると思っている。性欲があるから正当な夫婦愛も成り立つという性の持つ本来の側面を必要以上に否定しているように思えるからだ。トルストイ自身が妻との関係でこじれたのも彼の行き過ぎた性欲否定に起因していると思える。
だが人間がこれまで性欲ゆえに他人を不幸にし自らも破滅に瀕してきたということも人間の真実であり、こういう人間の根源性に真面目に取り組み、性欲に囚われた人間存在の根源的な課題を描いている作家は実は稀有な存在というべきである。現代文学は誰もがフリーセックスを当たり前のように描くが、トルストイはそれとは正反対の立場に立つという意味では、実は彼こそ、退屈にして社会に害悪を撒き散らすばかりの多くの現代文学に対する革新的なテーゼを提示しうるのであり、真の正義を代表しうる作家のように思えるのである。
彼の禁欲思想はそういう人間の罪と不幸を知悉した賜物であるという意味で有意義な思想と言えるのではないか。20年前、洞察力に富んだこの2作を読んで大変な衝撃を受けたことを私は忘れられない。
本当のところ私はトルストイの性欲に対する厳格な否定は誤っていると思っている。性欲があるから正当な夫婦愛も成り立つという性の持つ本来の側面を必要以上に否定しているように思えるからだ。トルストイ自身が妻との関係でこじれたのも彼の行き過ぎた性欲否定に起因していると思える。
だが人間がこれまで性欲ゆえに他人を不幸にし自らも破滅に瀕してきたということも人間の真実であり、こういう人間の根源性に真面目に取り組み、性欲に囚われた人間存在の根源的な課題を描いている作家は実は稀有な存在というべきである。現代文学は誰もがフリーセックスを当たり前のように描くが、トルストイはそれとは正反対の立場に立つという意味では、実は彼こそ、退屈にして社会に害悪を撒き散らすばかりの多くの現代文学に対する革新的なテーゼを提示しうるのであり、真の正義を代表しうる作家のように思えるのである。
彼の禁欲思想はそういう人間の罪と不幸を知悉した賜物であるという意味で有意義な思想と言えるのではないか。20年前、洞察力に富んだこの2作を読んで大変な衝撃を受けたことを私は忘れられない。