先日、購入しました。レビューを書いた方の気持ちわかりました。CDを入れる紙袋はやはりガッカリしました。何これと思いました。画用紙を袋に作ったみたいで、日本ではあまり見たことがない感じ。しかし、中身は素晴らしいです。音も鮮明で力強くとても良いです。袋はどこかで探して入れ直そうかとおもっています。
クラシックファン
Prokofiev: The Symphonies / プロコフィエフ: 交響曲全集
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曲目リスト
ディスク: 1
1 | Allegro |
2 | Larghetto |
3 | Gavotte: Non Troppo Allegro |
4 | Finale: Molto Vivace |
5 | Moderato |
6 | Allegretto |
7 | Andante Espressivo |
8 | Vivace |
ディスク: 2
1 | Allegro Ben Articolato |
2 | Theme |
3 | Variation 1 |
4 | Variation 2 |
5 | Variation 3 |
6 | Variation 4 |
7 | Variation 5 |
8 | Variation 6 and Theme |
9 | Moderato |
10 | Andante |
11 | Allegro Agitato - Allegretto |
12 | Andante Mosso - Allegro Moderato |
ディスク: 3
1 | Andante Assai - Allegro Eroico |
2 | Andante Tranquillo |
3 | Moderato, Quasi Allegretto |
4 | Allegro Risoluto |
5 | Andante - Allegro Eroico - Allegretto |
6 | Andante Tranquillo |
7 | Moderato Quasi Allegretto |
8 | Allegro Risoluto |
ディスク: 4
1 | Andante |
2 | Allegro Marcato |
3 | Adagio |
4 | Allegro Giocoso |
ディスク: 5
1 | Allegro Moderato |
2 | Largo |
3 | Vivace |
商品の説明
1-4.交響曲 第1番 ニ長調「古典」Op.25/5-8.交響曲 第7番 嬰ハ短調 Op.131/1-8.交響曲 第2番 ニ短調 Op.40/9-12.交響曲 第3番 ハ短調 Op.44/1-4.交響曲 第4番 ハ長調 Op.47(1930年初稿版)/5-8.交響曲 第4番 ハ長調 Op.112(1947年改訂版)/1-4.交響曲 第5番 変ロ長調 Op.110/1-3.交響曲 第6番 変ホ短調 Op.11
演奏: ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団/ドミートリー・キタエンコ(指揮)
PHOENIX PE135の移行盤
ショスタコーヴィチの交響曲で明晰でクールな解釈を披露し、大好評を博しているキタエンコ。とにかく爆発的な表現が話題となっている人ですが、このプロコフィエフ(1891-1953)でも期待通りの凄演を聴かせてくれます。明晰なテンポ、切れのあるアンサンブル、そして随所に漲るエネルギーの噴出には驚く他ありません。ロシア音楽と新古典主義の融合から生まれた傑作をこれでもか!とばかりに表出。これは価値ある5枚組です。
登録情報
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 製品サイズ : 13.41 x 13.41 x 1.6 cm; 142.03 g
- メーカー : CAPRICCIO
- EAN : 0845221071909
- オリジナル盤発売日 : 2015
- レーベル : CAPRICCIO
- ASIN : B00U0S0LB0
- ディスク枚数 : 5
- Amazon 売れ筋ランキング: - 169,750位ミュージック (ミュージックの売れ筋ランキングを見る)
- - 42,563位輸入盤
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年4月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
先日は紙ジャケの糊付けで激怒してしまいましたが、純粋に楽曲として聴き直しました。
まず録音が素晴らしい。演奏も鬼気迫る部分とか優しく奏でる部分も明確に演奏されていて
点数を点け直しました。
なじみの薄い、2.3.4.6番を面白く感じる演奏でした。
ただ、メーカーに求めるのは紙ジャケに工夫をいただきたい。
まず録音が素晴らしい。演奏も鬼気迫る部分とか優しく奏でる部分も明確に演奏されていて
点数を点け直しました。
なじみの薄い、2.3.4.6番を面白く感じる演奏でした。
ただ、メーカーに求めるのは紙ジャケに工夫をいただきたい。
2020年5月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
新しいプロコフィエフの交響曲全集はないものかと求めていて購入。キタエンコとケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の蜜月の関係によるものか、演奏に迷いがないように感じられ、素晴らしいです。特にお気に入りは1番、5番、7番。テンポについては全体的にロストロポーヴィチよりも速く、ゲルギエフより遅い(細部で多少の差異はありますが)程度で、細かなアンサンブルも聞こえることに満足しています。なお、ギュルツェニヒ管の指揮者には2015年からフランソワ=グザヴィエ・ロトが着任しており、今後ますます活躍が楽しみなオーケストラの一つです。
2022年11月24日に日本でレビュー済み
ドミトリー・キタエンコとケルン・ギュルツェニヒ交響楽団のコラボによる一連のスラヴ系作曲家のシリーズのひとつで、この全集の収録は2005年から2007年なので、ショスタコーヴィチの交響曲全集が完結した直後から始まった両者の精力的な音楽活動の一環だったことが理解できる。キタエンコは当時60代で最も脂の乗り切った指揮でプロコフィエフの精緻でユニークなオーケストレーションや機知に富んだ楽想を、目の醒めるような生き生きとした表現と迫力で再現している。彼に高度なアンサンブルで見事に呼応しているのがギュルツェニヒ交響楽団で、ある時は華麗に、そしてまたある時は果敢でグロテスクな闘争と束の間の安らぎ、そしてクライマックスでは壮大な音響のモニュメントをイメージさせてくれる。この全集は何故かSACD化されなかったが、音質的にも鮮烈なサウンドを楽しむことができる。ちなみにキタエンコはギュルツェニヒの首席指揮者になったことはないが、ギュンター・ヴァントと共に同交響楽団から名誉指揮者の栄誉を贈られている。
ライナーノーツを見ると第三番と第六番は、それぞれ2006年11月及び2007年12月に行われたライヴからの録音で、その他はセッションになるが、ライヴでも音質は殆ど変わらない。なおCD3は第四番の1930年のオリジナル・バージョンと1947年の改訂版がカップリングされている。聴き比べると作曲家が改定時にそれぞれの楽章を書き足して規模を拡大し、オーケストレーションも拡張していることが分かる。それゆえこの2曲はほぼ別の交響曲と見做してキタエンコも併録しているのだろう。いずれにしてもこれまでリリースされたプロコフィエフの交響曲全集の中でも最も音質の良い、そして先鋭的な解釈で演奏されたサンプルとしてお薦めしたいセットだ。
ライナーノーツを見ると第三番と第六番は、それぞれ2006年11月及び2007年12月に行われたライヴからの録音で、その他はセッションになるが、ライヴでも音質は殆ど変わらない。なおCD3は第四番の1930年のオリジナル・バージョンと1947年の改訂版がカップリングされている。聴き比べると作曲家が改定時にそれぞれの楽章を書き足して規模を拡大し、オーケストレーションも拡張していることが分かる。それゆえこの2曲はほぼ別の交響曲と見做してキタエンコも併録しているのだろう。いずれにしてもこれまでリリースされたプロコフィエフの交響曲全集の中でも最も音質の良い、そして先鋭的な解釈で演奏されたサンプルとしてお薦めしたいセットだ。
2015年5月7日に日本でレビュー済み
キタエンコ指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団によるプロコフィエフ交響曲全集。第4番は原典版と改訂版両方を収録。
まず思うところは非常にオーケストラの合奏能力は高く、録音の良さもあいまって音が美しいことです。また3番5番6番はライヴ収録ですが殆ど会場ノイズ等は気になりません。楽章間の僅かなザワザワ感が無かったらライヴと気付かないかも。
どの曲も丁寧に彫築され、力強さやプロコフィエフ特有の諧謔性も不足はありません。敢えていうなら編成が小さい古典交響曲で若干弦のアンサンブルに乱れが散見されますが、それも些細なことだと思えます。
粒は揃っているものの録音のせいもあるのかキレがなく印象に残りにくいゲルギエフやウェラー、美しくはあるけど角が丸められすぎてプロコフィエフ「らしさ」が希薄な小澤/BPO、プロコフィエフ「らしさ」は出ているものの菅に比べ弦の表現力が弱く音そのものの魅力に不足するヤルヴィ盤などなど、他にも色々聴いてきましたが、全集としてここまでまとまりもよく満足いくものは初めてでした。文句なくお勧めします。
まず思うところは非常にオーケストラの合奏能力は高く、録音の良さもあいまって音が美しいことです。また3番5番6番はライヴ収録ですが殆ど会場ノイズ等は気になりません。楽章間の僅かなザワザワ感が無かったらライヴと気付かないかも。
どの曲も丁寧に彫築され、力強さやプロコフィエフ特有の諧謔性も不足はありません。敢えていうなら編成が小さい古典交響曲で若干弦のアンサンブルに乱れが散見されますが、それも些細なことだと思えます。
粒は揃っているものの録音のせいもあるのかキレがなく印象に残りにくいゲルギエフやウェラー、美しくはあるけど角が丸められすぎてプロコフィエフ「らしさ」が希薄な小澤/BPO、プロコフィエフ「らしさ」は出ているものの菅に比べ弦の表現力が弱く音そのものの魅力に不足するヤルヴィ盤などなど、他にも色々聴いてきましたが、全集としてここまでまとまりもよく満足いくものは初めてでした。文句なくお勧めします。
他の国からのトップレビュー

kari Pirhonen
5つ星のうち5.0
Buy this
2021年12月24日にドイツでレビュー済みAmazonで購入
Prokofjev better than ever

Silvestre
5つ星のうち3.0
Prokofiev - Sinfonías - Kitajenko
2024年2月14日にスペインでレビュー済みAmazonで購入
Me parece un buen director Kitajenko. Su integral de Sinfonías de Shostakovich está muy bien (tiene un sonido y unas dinámicas espectaculares).
Mucha gente coincide en que estas versiones de las Sinfonías de Prokofiev son excelentes, así que no me haga usted mucho caso cuando le digo que prefiero a Leinsdorf, en general, y a Muti para la Tercera.
Mucha gente coincide en que estas versiones de las Sinfonías de Prokofiev son excelentes, así que no me haga usted mucho caso cuando le digo que prefiero a Leinsdorf, en general, y a Muti para la Tercera.

David Bigazzi
5つ星のうち2.0
Esecuzione scolastica, senza anima
2017年11月17日にイタリアでレビュー済みAmazonで購入
Premetto che il mio giudizio è fortemente condizionato dall'esecuzione della sinfonia n. 2. Si tratta del lavoro per me di gran lunga più interessante della serie ed il più incompreso, tanto che nessuna delle principali edizioni in commercio appare veramente all'altezza, trovando forse la migliore interpretazione con Martinon e l'ORTF. Ma quella di Kitaenko è davvero la peggiore. Dalla prima all'ultima nota il direttore sembra prodigarsi per togliere vigore all'opera. Il primo movimento è per sua natura "autoconsistente" e difficile da sbagliare, e tutto sommato "funziona" abbastanza. Il secondo è caratterizzato da marcati contrasti melodico/ritmici (lo definirei quasi "progressive") risultando il più complesso dei due. Qui il Maestro da veramente il peggio di sé, rallentando incomprensibilmente e sgonfiando in modo fastidioso tutti i climax. Inoltre, va bene che si tratta di un Tema con Variazioni, ma è pur sempre un unico movimento sinfonico e le pause fra le singole variazioni andrebbero ridotte al minimo e in alcuni casi evitate, per dare un senso di unità al discorso, cosa che Kitaenko non intuisce mai, mettendo addirittura una pausa di 5 secondi fra la V e la VI variazione, che invece Gergiev con la Marijnsky Orchestra hanno eseguito senza soluzione di continuità (come è logico che sia). Il risultato è un'esecuzione scolastica e senza anima.

amateur critic 1
5つ星のうち5.0
A revelatory set
2017年2月8日に英国でレビュー済みAmazonで購入
Before purchasing this set I had never heard of this conductor, but many reviews were extremely positive, so I took the plunge and I am so glad that I did. I only really know symphonies 1,5 and 6 really well but I am enjoying getting to know the others. Comparing nos. 1&5 with the Karajan recording shows similar tempi but less lush strings in Kitajenko's recording, probably because his orchestra is smaller. The structure emerges very clearly, thanks also to the superlative recording quality. No.6 had to stand comparison with both Mravinsky and Rozhdestvensky, no easy test, but Kitajenko's steadier pacing and less overtly emotional approach work extremely well in this symphony which most Prokofiev aficionados consider his greatest symphony, a view with which I agree. A word about the recording. It is for me the perfect balance of clarity, weight and natural soundstage. I had never been so aware that Prokofiev used blocks of sound so much to underpin his melodies, but the incredible depth of this exceptional recorded sound really brings this out. Even if I don't come to appreciate the other symphonies, this set is worth every penny just for 1,5 and 6

brissaud
5つ星のうち5.0
PROKOFIEV/LES 7 SYMPHONIES/KITAENKO
2015年5月19日にフランスでレビュー済みAmazonで購入
Un temps éditée à prix fort sous la forme d'un volumineux boitier chez Phoenix, voici, à un prix dérisoire, rempaquetée en boîtier slim et superbement reportée par Capriccio, l'intégrale des symphonies de Prokofiev justement acclamée de Dmitri Kitaenko et du Gürzenich de Cologne, enregistrée en studio de 2005 à 2007, à l'exception de deux prises en public, les symphonies 3 et 6.
L'image de couverture du coffret, qui figure des personnages vitrifiés, livides, émergeant d'un sol gelé sous un ciel de cauchemar, donne une exacte idée des postulats esthétiques qui ont présidé à l'entreprise. Il n'est pas, en effet, sauf dans les rares gravures de Mravinski, de Prokofiev plus ambigu et inquiétant que celui de Kitaenko, qui, sous le couvert de tempos très amples, de sonorités extraordinairement lisses et fuyantes, privilégiant les teintes sombres, voire obscures (le grave des clarinettes et des trombones, le tuba, les contrebasses, la grosse caisse) et d'un déterminisme formel sans faille, unifie un corpus pourtant très disparate et extrêmement centrifuge (le faux archaïsme de la symphonie "classique"; les pages modernistes des années 1924-28 - symph.2 et 3-; l'étrange 4ème, donnée ici dans sa version primitive de 1930 et dans sa mouture révisée et élargie de 1947; les chefs-d'oeuvre "soviétiques" - les 5 et 6, opposées et complémentaires-; et la tardive et déroutante 7ème) auquel il confère une ampleur tragique, une noirceur, un caractère fatal aussi frappants que risqués ... et inhabituels.
L'ensemble, fort peu différencié donc, se caractérise par un spectaculaire tressage de teintes fluides et froides (ces cordes gris acier, ces bois et cuivres fuligineux, au fuselage incroyablement plastique, nuancé en filigranes sinistres), un souffle déclamatoire d'une hauteur totalement dépourvue d'emphase (écouter le finale de la 6ème), un sens et une économie exceptionnels des nuances (les gradations de gris de la 5ème!), un relief instrumental, une transparence et une cohésion polyphonique (la réputée touffue toccata d'ouverture de la 2ème, véritable tempête de couleurs et de contrepoint que le compositeur lui-même trouvait inutilement surchargée et désordonnée, a-t-elle jamais trouvé une telle lumineuse évidence?) quasi-surnaturelles.
On se trouve ici à l'opposé de l'extravagance orchestrale, de l'emphase et du statisme souvent présents chez Weller (Decca), des dispersions hollywoodiennes d'un Ozawa (DG) constamment hors sujet, de la mollesse et des chutes de tension du pourtant sensible Rostropovitch (Erato) ou de l'agitation souvent trop clinquante et trop dispersée du tonique mais inégal Järvi (Chandos). Kitaenko pencherait plutôt, mais en plus sombre, plus profond, et plus dense, vers la splendeur plastique de la trop méconnue intégrale de Kosler (Supraphon, avec une sublime Philharmonie Tchèque Prokofiev : Les symphonies ), à laquelle il ajoute une incomparable cohésion esthétique, le Tchèque étant étranger aux flux souterrains, aux dynamiques infinitésimales, aux phrasés sinueux, à la rythmique aiguisée, à la respiration hypnotique, au travail de sape constant opéré par le Russe sous la façade d'un discours d'une éblouissante plasticité.
La difficile Deuxième symphonie bénéficie tout particulièrement d'une telle lucidité, et trouve ici son absolue référence, tant dans l'étincellement du mouvement d'ouverture que dans le nuancement limpide du Thème et variations qui suit. S'agissant du Prokofiev négateur et diabolique de la Troisième Symphonie, le chef traduit, sans artifices, sans surcharge, avec une singulière consistance, la spirale paranoïaque (les ostinatos des 1er et 3ème mouvements!) du cauchemar des héros torturés de l'Ange de Feu, dont le matériau recyclé sert de canevas à l'ouvrage. Moins vif, moins superficiellement nerveux, que dans sa précédente gravure de 1985 avec la Philharmonie de Moscou (Melodiya), Kitaenko expose avec une sournoise cruauté et une constante morbidité la noirceur et la stagnance tragique de cette œuvre difficile entre toutes, et si peu symphonique. L'orchestre, comme sous hypnose, vous saute au visage avec ses cordes griffues qui se tissent en gestes glacés, ou en figurations arachnéennes, ses bois maléfiques (écouter les bassons et contrebasson dans la coda du "moderato'" initial), ces cuivres et ces percussions enfiévrés (les battements des "esprits frappeurs" dans les deux derniers temps).
A cette possession succède l'humanisme presque rassurant (mais ici fort distant, comme sceptique) de la Quatrième, dont Kitaenko réussit l'exploit de faire presque préférer le version longue de 1948, dont il élude les clichés épiques, les excroissances violentes et les redites avec un naturel stupéfiant, gommant ce que l’œuvre, déjà patchwork de fragments du ballet "le Fils prodigue" dans sa version initiale, peut avoir de grossièrement rafistolé , sans compter la platitude harmonique de son écriture, obsessivement ancrée sur do majeur.
La Cinquième, noire, sinistre, funèbre, constamment grondante sous un masque de candeur, qui semble s'évanouir vers la vaine recherche de son objet, est une pure, et paradoxale, splendeur, formant dyptique avec une magistrale Sixième (le chef d’œuvre absolu du cycle), soleil noir, épopée désabusée, tendant, comme sa jumelle, vers le néant.
La populaire Septième, que l'on présente souvent, malgré son charme et sa profusion mélodique, comme la plus faible du cycle, se voit ici métamorphosée par une approche inquiète, instable, sans cesse frôlant le gouffre, et fuyant toutes les suavités douces-amères ou le lyrisme sirupeux dont d'autres ont cru bon de la charger. Ainsi questionnée, noircie, l’œuvre, d'une fixité quasi-minérale trouée de mouvements d'horlogerie inquiétants, rejoint les ultimes et énigmatiques opus symphoniques d'un Chostakovitch, d'un Nielsen, d'un Vaughan Williams, où la nostalgie d'une enfance perdue se mêle à la préfiguration de la mort. Kitaenko adopte, bien sûr, la fin "pensieroso", et non l'alternative criarde composée par Prokofiev pour la censure. Dommage que l'on entende la harpe seulement que par bribes.
L'orchestre, d'une magnifique discipline, et d'un galbe sculptural, même si les percussions aiguës apparaissent parfois un peu clinquantes, tout comme une prise de son large et réverbérée mais d'une constante clarté et d'un extrême dynamisme, ajoutent encore à la réussite d'un ensemble sans équivalent moderne. Le lyrisme plus traditionnellement russe et généreux, la fraîcheur, l'élan, l'époustouflante vitalité de Rojdestvenski (Melodiya) Prokofiev : Intégrale des Symphonies moins bien enregistré, continuent à faire référence, véritable antidote au poison distillé par cette version absolument fascinante, que l'on ne saurait toutefois recommander en première approche.
L'image de couverture du coffret, qui figure des personnages vitrifiés, livides, émergeant d'un sol gelé sous un ciel de cauchemar, donne une exacte idée des postulats esthétiques qui ont présidé à l'entreprise. Il n'est pas, en effet, sauf dans les rares gravures de Mravinski, de Prokofiev plus ambigu et inquiétant que celui de Kitaenko, qui, sous le couvert de tempos très amples, de sonorités extraordinairement lisses et fuyantes, privilégiant les teintes sombres, voire obscures (le grave des clarinettes et des trombones, le tuba, les contrebasses, la grosse caisse) et d'un déterminisme formel sans faille, unifie un corpus pourtant très disparate et extrêmement centrifuge (le faux archaïsme de la symphonie "classique"; les pages modernistes des années 1924-28 - symph.2 et 3-; l'étrange 4ème, donnée ici dans sa version primitive de 1930 et dans sa mouture révisée et élargie de 1947; les chefs-d'oeuvre "soviétiques" - les 5 et 6, opposées et complémentaires-; et la tardive et déroutante 7ème) auquel il confère une ampleur tragique, une noirceur, un caractère fatal aussi frappants que risqués ... et inhabituels.
L'ensemble, fort peu différencié donc, se caractérise par un spectaculaire tressage de teintes fluides et froides (ces cordes gris acier, ces bois et cuivres fuligineux, au fuselage incroyablement plastique, nuancé en filigranes sinistres), un souffle déclamatoire d'une hauteur totalement dépourvue d'emphase (écouter le finale de la 6ème), un sens et une économie exceptionnels des nuances (les gradations de gris de la 5ème!), un relief instrumental, une transparence et une cohésion polyphonique (la réputée touffue toccata d'ouverture de la 2ème, véritable tempête de couleurs et de contrepoint que le compositeur lui-même trouvait inutilement surchargée et désordonnée, a-t-elle jamais trouvé une telle lumineuse évidence?) quasi-surnaturelles.
On se trouve ici à l'opposé de l'extravagance orchestrale, de l'emphase et du statisme souvent présents chez Weller (Decca), des dispersions hollywoodiennes d'un Ozawa (DG) constamment hors sujet, de la mollesse et des chutes de tension du pourtant sensible Rostropovitch (Erato) ou de l'agitation souvent trop clinquante et trop dispersée du tonique mais inégal Järvi (Chandos). Kitaenko pencherait plutôt, mais en plus sombre, plus profond, et plus dense, vers la splendeur plastique de la trop méconnue intégrale de Kosler (Supraphon, avec une sublime Philharmonie Tchèque Prokofiev : Les symphonies ), à laquelle il ajoute une incomparable cohésion esthétique, le Tchèque étant étranger aux flux souterrains, aux dynamiques infinitésimales, aux phrasés sinueux, à la rythmique aiguisée, à la respiration hypnotique, au travail de sape constant opéré par le Russe sous la façade d'un discours d'une éblouissante plasticité.
La difficile Deuxième symphonie bénéficie tout particulièrement d'une telle lucidité, et trouve ici son absolue référence, tant dans l'étincellement du mouvement d'ouverture que dans le nuancement limpide du Thème et variations qui suit. S'agissant du Prokofiev négateur et diabolique de la Troisième Symphonie, le chef traduit, sans artifices, sans surcharge, avec une singulière consistance, la spirale paranoïaque (les ostinatos des 1er et 3ème mouvements!) du cauchemar des héros torturés de l'Ange de Feu, dont le matériau recyclé sert de canevas à l'ouvrage. Moins vif, moins superficiellement nerveux, que dans sa précédente gravure de 1985 avec la Philharmonie de Moscou (Melodiya), Kitaenko expose avec une sournoise cruauté et une constante morbidité la noirceur et la stagnance tragique de cette œuvre difficile entre toutes, et si peu symphonique. L'orchestre, comme sous hypnose, vous saute au visage avec ses cordes griffues qui se tissent en gestes glacés, ou en figurations arachnéennes, ses bois maléfiques (écouter les bassons et contrebasson dans la coda du "moderato'" initial), ces cuivres et ces percussions enfiévrés (les battements des "esprits frappeurs" dans les deux derniers temps).
A cette possession succède l'humanisme presque rassurant (mais ici fort distant, comme sceptique) de la Quatrième, dont Kitaenko réussit l'exploit de faire presque préférer le version longue de 1948, dont il élude les clichés épiques, les excroissances violentes et les redites avec un naturel stupéfiant, gommant ce que l’œuvre, déjà patchwork de fragments du ballet "le Fils prodigue" dans sa version initiale, peut avoir de grossièrement rafistolé , sans compter la platitude harmonique de son écriture, obsessivement ancrée sur do majeur.
La Cinquième, noire, sinistre, funèbre, constamment grondante sous un masque de candeur, qui semble s'évanouir vers la vaine recherche de son objet, est une pure, et paradoxale, splendeur, formant dyptique avec une magistrale Sixième (le chef d’œuvre absolu du cycle), soleil noir, épopée désabusée, tendant, comme sa jumelle, vers le néant.
La populaire Septième, que l'on présente souvent, malgré son charme et sa profusion mélodique, comme la plus faible du cycle, se voit ici métamorphosée par une approche inquiète, instable, sans cesse frôlant le gouffre, et fuyant toutes les suavités douces-amères ou le lyrisme sirupeux dont d'autres ont cru bon de la charger. Ainsi questionnée, noircie, l’œuvre, d'une fixité quasi-minérale trouée de mouvements d'horlogerie inquiétants, rejoint les ultimes et énigmatiques opus symphoniques d'un Chostakovitch, d'un Nielsen, d'un Vaughan Williams, où la nostalgie d'une enfance perdue se mêle à la préfiguration de la mort. Kitaenko adopte, bien sûr, la fin "pensieroso", et non l'alternative criarde composée par Prokofiev pour la censure. Dommage que l'on entende la harpe seulement que par bribes.
L'orchestre, d'une magnifique discipline, et d'un galbe sculptural, même si les percussions aiguës apparaissent parfois un peu clinquantes, tout comme une prise de son large et réverbérée mais d'une constante clarté et d'un extrême dynamisme, ajoutent encore à la réussite d'un ensemble sans équivalent moderne. Le lyrisme plus traditionnellement russe et généreux, la fraîcheur, l'élan, l'époustouflante vitalité de Rojdestvenski (Melodiya) Prokofiev : Intégrale des Symphonies moins bien enregistré, continuent à faire référence, véritable antidote au poison distillé par cette version absolument fascinante, que l'on ne saurait toutefois recommander en première approche.