モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の名曲、「クラリネット協奏曲 イ長調 K.622」は、モーツァルトと親交の深かったクラリネット奏者、アントン・シュタードラー(Anton Stadler 1753-1812)のために書かれた。ただ、シュタードラーの使用していた楽器は、シュタードラーが自身のため、特別にテオドール・ロッツ(Theodor Lotz 1748-1792)と作製した「バセット・クラリネット」と呼ばれる楽器である。この楽器は現在まで主流となったイ調のクラリネットより低音が4音多い。バセットはバスの意味である。
そのため、モーツァルトが書いたクラリネット協奏曲は、本来クラリネットが奏することができない低音を含んでいたのだが、モーツァルトはきちんと通常のクラリネット用のスコアも残していて、現在ではそれが通常版となる。シュタードラーが愛用した特注楽器であったバセット・クラリネットは、紛失し、その形状が伝えられなかったことから、その後、いくつかの方法で、当該音域を復元したクラリネットが作製され、バセット・クラリネット用の楽曲を奏する際に用いられてきた。
しかし、1992年に、アメリカの音楽学者パメラ・ポーリン(Pamela Poulin)が、1794年3月にラトビアのリガで行われたシュタードラーのコンサートのプログラムを発見し、そこにバセット・クラリネットのイラストが掲載されてあったことから、機能だけではなく形状も含めた楽器の復元が可能となった。
そして、このアルバムには、そのイラストに基づいてあらためて復元されたバセット・クラリネットを用いて、ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)指揮、18世紀オーケストラによる演奏で、リガで行われたプログラムそのままの楽曲が収録されている。演目はすべてモーツァルトのもので、以下のような内容だ。
1) クラリネット協奏曲 イ長調 K.622
2) 歌劇「皇帝ティートの慈悲」 K.621 より 序曲
3) 歌劇「皇帝ティートの慈悲」 K.621 より アリア「私は行くが、君は平和に」
4) 歌劇「皇帝ティートの慈悲」 K.621 より アリア「夢に見し花嫁姿」
5) アダージョ 変ロ長調 K.411(2つのクラリネットと3つのバセット・ホルンのための)
6) フリーメイソンのための葬送音楽 ハ短調 K.477
録音は2)が1986年、6)が1998年、他は2001年となっている。バセット・クラリネットの独奏は18世紀オーケストラの首席クラリネット奏者であるエリック・ホープリッチ(Eric Hoeprich 1955-)で、彼は別の曲ではバセット・ホルンも担当している。また2つのアリアでは、メゾソプラノ独唱をジョイス・ディドナート(Joyce DiDonato 1969-)が務める。
ホープリッチとブリュッヘンによるクラリネット協奏曲の録音は、1985年にも行われていた。私はこの旧録音も持っているが、素晴らしい録音だったので、長らく愛聴してきたのだが、その当時使用されていた楽器はバセット・ホルンのような形状のものだったらしい。
一方で、当録音で用いられているバセット・クラリネットは、管の先に球状のベルが取り付けられたような形状。それでも完全に当時の楽器の音色が復元されたわけではないのだけれど、とても憂いのある美しい響きで、多くの人を幸福な気持ちにさせるものだと思う。当然のことながら、スコアも、モーツァルトが書いたオリジナルの低音を含んだものを用いていて、各楽章で行われたオクターブの変更や、それに付随した前後の部分の改変が成される前の「原型」を聴くことが出来る。演奏は、特有の甘味のある音色と、ブリュッヘンのソフトなバックがあいまって、とても優しい柔らかい印象のもの。オーケストラの適度な奥行きのある表現も見事。
歌劇「皇帝ティートの慈悲」は、この時期のモーツァルトのものとしては、物足りないところのある作品だが、しかし、セストのアリア「私は行くが、君は平和に」は圧倒的に有名で音楽的内容も濃い。ディドナートの過不足ない歌唱で、オーケストラとよく溶け合った響きを聴くことができる。適度に残響の豊かな録音も好ましい。「2つのクラリネットと3つのバセット・ホルンのためのアダージョ」は、これらの楽器の音色を堪能できる一品で、未聴の人にはぜひ楽しんでほしい逸品。