.『ワルキューレ』第一幕の演奏会形式による上演…はいいものの、冒頭のクレジットで、出演者紹介のテロップに「Siegfried…Fritz Uhl」と出るのにカクッとなる。正しくはジークフリートの父ジークムント。まあ、父子どちらもヘルデンテノールの似たような役柄、同じ歌手が演じることもあるのだろうから、ついウッカリ…も作品に慣れ親しんだ向こう―オーストリア放送協会―の方が却って仕出かしやすいのかも。
同じクナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルの演奏を収めたDVD『ウィーン芸術週間1962~ウィーン・フィル特別コンサート』での『イゾルデの愛の死』(歌はビルギット・ニルソン)と観比べると、ドラマティックな起伏に富んだ『ワルキューレ』の管弦楽の威容は、木管12・金管11・ハープ1などの前者が巡洋艦、木管13・金管17・ハープ2*の後者は戦艦と云った趣きで観応えがある。
*本来はハープ6!まあ、楽団をバイロイトのピットならぬ一般的なステージに上げる場合は、弦楽器もスコアの3/4くらいに縮小するのが常道で、本ディスク、それに上記『愛の死』の演奏もその常識的スタイルに沿ったものではある。
実演や放送・録画、それにスタジオ録音でもよく見かけるのがこの『ワルキューレ』第一幕のみの演奏会形式による上演・演奏―スタ録のハシリは戦前のワルター&ウィーン・フィルだろうか―だが、登場人物は三人きり、それもソプラノ、テノール、バスと配役のバランスがよく、出番の時間配分もほどよい加減で経済効果・演奏効果ともに挙がりやすいと云うことか。『ジークフリート』第一幕も登場人物は三人だが、こちらは男声のみ。しかもミーメ一人が出ずっぱりで初見の向きは彼が主人公と錯覚しそう。ジークフリートが金太郎の如く熊を引き連れて登場したり(正直、初めて聴いた時はちょっと笑った)、火花を上げて刀を打ったり鉄床を叩き斬ったりの「見せ」場が目立つのも、燕尾服で直立不動の舞台姿ではいまいちサマにならないような。
この演奏会形式によるオペラ上演、カール・ベームも『回想のロンド』(白水社)で「モーツァルトでは問題ないがワーグナーには不向き」と持論を述べていたが、それでも最近のヘンな前衛演出による舞台を観ると、ベーム説―同書では「新演出はギュンター・レンネルトで限界線に達した」とも―を無条件には支持しにくくなる。そもそも音楽が事細かにドラマの注釈や解説、云わばスーパーインポーズを添えるのみならず、舞台装置や衣装、大道具・小道具の代わりまで務めて、云わば管弦楽が映画に於けるカメラの機能―アップ&ロング、ズーム・イン&アウト、正面&背面、俯瞰&仰観、パン&ドリー、高速&低速、カットバック、フラッシュバック、ライティング、スクリーン・プロセス等々―を果たす観のあるワーグナーには必要最低限以上の視覚的効果はむしろ不要かもしれないし、洗練度・完成度とは別に音楽がやはりドラマの装飾物でしかないモーツァルト・オペラ―全くの歌詞抜きで聴いた場合、劇作品としてよりサマになる、あるいは起承転結を有してドラマティックに聴こえるのはどちらかと云う意味。悪しからず―では、ヴィーラント・ワーグナーに代表される抽象&象徴志向の演出スタイル**が余り流行らなかったのもそんなところから。
**新バイロイト様式などと一括りに称されて混同しがちだけれども、ヴィーラント・Wのあれはパトリス・シェロー以来の異化効果や所謂「読み替え」とは次元を異にする全くの別物。ヴィーラント演出の眼目は要するにナチ的ムードの払拭で(抽象的舞台と云うだけならクロール・オーパーなど戦前から例は多い)、それについて一応の成功を収めたはいいが、漂白・脱臭の度が過ぎて当否を問わずイデオロギー性そのものが空洞化(ワーグナーの作品自体にイデオロギッシュな性格が強いのに)、その真空状態にこれまたいささか左巻き過ぎるリベラリズムが―云わば気圧差で―吸い寄せられて、今や抜き難く染み付いてしまったのが今のバイロイト…と云ったところだろう。右へ倣えで極端な「読み替え」のケンを競う各地の新演出と云い、アレっていつまでやるんですかね。
本ディスク、収録時期から想像出来るようにまだまだカメラ・ワークに粗削りな部分があるものの、歌手のみならず個々の楽器セクションにも要所々々でスポット&フォーカスの手法は既に確立しており(NHKを手本にしたと云うのは本当だろうか?)、舞台だと演技や装置、映像だと日本語字幕にも目を取られて時に聴き流してしまいがちなライトモティーフの数々がいちいち自己主張、ビデオ撮影によるモノクロ映像&モノラル音声も化粧っ気がないだけに却って生々しさを伝えて―金管群の音色の差別化など、ここまで明確なものは少ないような―ヘタな舞台よりリアルな劇進行を浮かび上がらせる。オペラにおける演出とは、ワーグナーに限らず本来は音楽がその機能の殆どを担っているもの、就中ライトモティーフをひっきりなしに繰り出して、何でもかんでも音楽で描写したがるのがむしろ最大の欠点と云っていいワーグナーには、やはり余計な小細工は無用と再認識させられる。実際、上演の形態として一番適しているのは舞台でも映画でもなく、『ラ・ジュテ』や『忍者武芸帳』のようなスチール画像のスライド上映ではないかと個人的には思っているのだが。
余談少々。同じことを感じている向きは少なからずおられるだろうけれど、『ワルキューレ』をヒント以上にかなりの部分下敷きにしたのではとかねがね疑って(?)いるのがシェーンベルク『浄められた夜』。激しい嵐と明るく静かな月夜の違いはあれど、ともにひと気のない冬の夜の場、しかも同じニ短調で始まり、『浄夜』の後半、ニ長調に転じて男の語りが始まる「Sehr breit und langsam.」***がヴォータンの別れの歌とどこか似ている…と思ったらこちらもニ長調。やはり『浄夜』の練習番号「V」中、フォルティッシモの「Sehr gross.」は「Lebwohl, du kühnes, herrliches Kind!」そのままの引用と云っていいんじゃないだろうか。遡って練習番号「U」=「Sehr ruhig.」で変奏されて回帰する動機群はブリュンヒルデの眠りの動機や彼女とジークフリートの愛の動機(これは『ワルキューレ』には登場しないが)、さらに遡って練習番号「N」からの愛の対話はジークムント&ジークリンデの二重唱の再現、何より後半部を通じて奏される高&中音域のアルペジオと『魔の炎の音楽』の類似性は紛れもなく…と、このあたり、詳しい論考がもしあればどなたかご教示のほどを(そう云えば、シェーンベルクは『今日から明日まで』でも『指環』のパロディ的な引用を一、二試みている)。
***以下、Verlag Dreililien(Richard Birnbach)刊のポケット・スコア表記による。
閑話休題。演奏終了後、クロージング・クレジットに重ねて喝采中の客席をパンしていくのはいいが、半ば帰りかけていた聴衆の拍手が最後にあらためてワーッと盛り上がる、アレはやっぱり指揮者がカーテン・コールに応えて最後に顔を出したんだろうな、と。クナッパーツブッシュがそう云うのは苦手な人だったのは有名らしく(当時はもうトシで出たり入ったりがシンドい…と云うこともあったかと。実際、この映像の二年半後に亡くなっている)、上記DVD『ウィーン芸術週間1962~~』でも、ベートーヴェンの協奏曲を終えるとソリストのバックハウスを放ったらかしてサッサと退散してしまい、バックハウスも「やれやれ…」とアキれた風情。本ディスクではせっかく重い腰を上げて出てきてくれたんだから、カメラさんも気を利かせて最後にステージを捉えてくれたら、もう一ついいものが観られたかもしれないのに(惜)。