あまり話題にならなかったが、凄い演奏である。ショスタコーヴィチの革命交響曲の演奏(解釈)の歴史には、冷たく暗い20世紀という時代と社会に深い関わりがある。ショスタコーヴィチは第5交響曲に芸術家としての生命を延命させる意図を与えた、と同時に様々なアイロニーを含ませていた。しかし結果として高い外面的効果を獲得したこの曲は、ムラヴィンスキーやバーンスタインによって劇性を高められ、高らかな勝利の凱歌へと変貌を遂げた。その結果、この交響曲は名曲の仲間入りをし、ショスタコーヴィチの名声は轟いたわけだから、もちろんそれはそれで大事なことだった。
しかし、いわゆるヴォルコフの証言(今となってはこの証言自体の信憑性も怪しい・・・しかしその言質の論点は20世紀の歴史の断面を確かに切り取っていると感じられる)によって、この曲の「強制された歓喜」という本来の意図を持つようになる。
アシュケナージはソ連からの亡命者である。「だからこの曲が分かる」なんて短絡な事は誰にも言えないが、この演奏を聴くと、恐ろしいほどの暗さと冷たさが支配していることは確かだ。実際、アシュケナージという演奏家が、これほど深刻な相貌をもってアプローチとすることは珍しい。元来が詩情とヒューマンの芸術家である。しかし、この演奏における彼はまったく違う。真っ暗な夜の凍土に響く重々しい音色。激しく細かく刻まれる打楽器のリズム。おどけた第2楽章も恐ろしいほどの闇を背景にやどし、沈鬱なアダージョは時代の悲歌を淡々と歌う。終楽章は畏怖の迫力が漲るが、硬いサウンドは厳しく、人を容易に寄せ付けない相貌を刻み続ける。フィナーレが終わり、聴き手は闇の中に閉ざされる。